触れることができる言語

Yenyu_Chen / Pixabay

1980年代後半、台北市では国語(北京語)が公用語、家庭では台湾語というスタンスでした。(実際は台湾語も外で多く使われていました)日本植民地時代、台湾人は日本語教育を受けましたので、その時代に学校に通っていた世代は母語のように日本語を話します。台湾語と日本語は話せるのですが、戦後、国語が北京語になり、そこから北京語を学んだので、北京語は苦手という人が多かったです。その年代の人は今でも日本人が中国語で話しかけると、きれいな日本語で「日本語で話してください」と言います。

戦後は学校では北京語、家庭では台湾語でしたので、(当時の世代は)両方話せます。(地域によっては客家語など台湾語ではなくその地域の言葉です)

大学の休み時間は台湾語で話している方が多かったような気がします。教授の中には中国内陸部出身者もいて、最初はなまりがひどく何を話しているか一言も分かりませんでした。皆も分からないと言いつつ、ノートは取れていますので、分からない次元そのものが違いました。しかし不思議なもので、分からなくても定期的に聞いていると外国人である私でもある日突然何を言っているか分かるようになるのでそれは嬉しかったです。その先生で言えば、台湾に行って4年目、週1の授業(50分×2)で半年過ぎたあたりからでしたので、やはり時間は要しました。

あと外国人の方が耳に敏感かもしれません。両親が中国大陸出身者だとやはり発音が全く違うのが分かります。これは日本人において同じで、外国人が日本人の話す日本語を聞くと、日本人同士では分からない”音”が分かるようです。

台湾はほとんどの国と正式な国交がないとはいえ、当時も台北市には実に多くの国の人が住んでいましたし、観光に来ていました。観光地は普通に日中英で説明が書いてありました。

夜のニュースも同じ時間帯に3局が放送をしていましたが、各局とも才色兼備の女性アナウンサーを用い、海外の局のアナウンサーと英語でニュースのやりとりを数分間していました。大人であっても、こういう環境にいますと、耳は自然に英語に慣れていきます。

大学の教科書はどの学科も英語の書籍を全部ではありませんが、教科書代わりにしていました。翻訳が進んでいなかったのか、あるいは英語力をつけさせるためか分かりませんが、私が学んだ史学科は約半分が英語の書籍を使っての授業でした。(A4で厚さ5センチぐらい)

恥ずかしながら、高校時代勉強をしていなかったのでチンプンカンプンでしたが、それでも毎回英語の書籍を見ていると、苦痛ではなくなってきます。当たり前ですが、単語と構文を一定数おさえていれば、自然に読むことができるようになると思います。

台湾にいると自然に日、英、中、台の4つの言語に触れることができ、触れるばかりではなく、話す機会にも大変恵まれています。