全盲でありながら、自立した生涯を送った女性 小林ハルさん

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ある番組で「孤独」ということに触れ、下重暁子さんが小林ハルさんを挙げました。私はこの方に大変興味を持ち、早速本を購入しました。

下重さんは「孤独」と「覚悟」についてハルさんを挙げましたが、私にとって一番の衝撃は全盲でありながら、自立して生活していたということです。

● ハルさんは無形文化財瞽女唄伝承者です。

鋼の女 最後の瞽女(ごぜ)・小林ハル    下重暁子 2003/8/20

鋼の女 最後の瞽女・小林ハル (集英社文庫)

小林ハルさんは明治時代、新潟県の現在の三条市の農家に生まれ、生後100日で「そこひ」にかかり両眼が見えなくなりました。しかし、ハルさんは経済的にも精神的にも自立した生涯を送った方です。

ハルさんは瞽女(ごぜ)です。当時、目の見えない障害を持つ人々が自活してゆく道として、瞽女は積極的にとらえられていたそうです。しかし、誰もが瞽女になれるわけではありません。瞽女は三味線を弾き、歌を披露する仕事です。村から村へ、時には県境を歩いて超え、旅する仕事です。当時は安全な道も橋もなかったわけですから、命をかけての旅です。

自分のことは自分でできるという基本的なことができなければ、旅はできません。朝起きてから、夜寝るまで、健常者と同じように全て自分でできなければならないのです。しかも旅するわけですから、他人の家に泊まり、自分の洗濯、ふろに入る、食事をする、荷造り等、全て自分でできなければ、仕事以前にやっかいものになり、家に帰されてしまいます。

母親はハルさんに縫物・編み物を教えました。針に糸を通せるようになると、着物はほどいて、どうやって縫われているかを触って覚えさせ、人形の着物を縫うことから始めました。その厳しい母親のしつけで、ハルさんは単衣(ひとえ)、下着は自分で縫え、編み物は巾着や脚絆(きゃはん)を自分で編むことができます。一番驚いたのは、ハルさんが料理上手で天ぷらを揚げるということでした。

6歳になる頃には、将来の旅に備えて身支度の練習、着物を着て帯を結び、挨拶の練習を始め、7歳になって、唄と三味線を教えてもらい、旧暦の12月(今でいう寒の一カ月間)に朝と晩に一人で信濃川に面する土手に一人で行き発声練習をしました。午前4時半に、自分で起き身支度をして5時から7時まで。今と違って防寒をしても寒さは全然ちがうはずです。しかも素足にわらじばきです。夜は10時まで練習をしたそうです。

母親は自分が亡くなった後(父親は早くに死)、ハルさんが自活できるよう厳しく育てました。自分が死んだら、兄弟姉妹がいても誰もハルさんの面倒をみる人がいないからです。

旅に出ると当然いじめもあります。そのときのハルさんの対応は今の大人でもなかなかできることではありません。耐えに耐えました。ハルさんを知るにつれ、受ける衝撃は大きくなり、目が見えるのに何もできないのは単なる言い訳であると、深く反省させられました。

しかし、何よりもハルさん自身が小学校入学前後の年齢で全てを受け入れ、耐えたことが何よりも大きな衝撃でした。しかも全盲でありながら、自活しているのです・・・。学校に行くことはなく、ただ母からの厳しい躾けと瞽女の厳しい修行で、生涯自立した生活を送ったハルさんには心を打たれました。

最後の瞽女(ごぜ) 小林ハル   光を求めた105歳  

  小林ハル 川野楠己  2005/12

最後の瞽女 小林ハル 光を求めた一〇五歳

ハルさんの生き方は私にとっても大きな刺激となりました。甘えてはいられません。現代に生きる私たちはハルさんみたいに親方に気に入らないことがあればご飯を抜かれることもなければ、姉弟子たちに暴力をふるわれることもありません。目が見え、自由に動くことができる人であれば、ガツーンと痛いものを感じるのではないでしょうか。人によって、感銘を受ける点は違うと思いますので、もし興味を持ちましたら、ぜひ手に取って読んでいただけたらと思います。