詰め込み教育

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台湾は子供の将来のためにと詰め込み教育(当時は誰もがそうでしたが)はすでに当たり前でした。その勉強量は想像を絶するもので、私には息が詰まる教育でした。しかし、そこまでやらなければ、コネも何もない一般人には将来はなかったということでもあると思います。

それは夏休みに小学校2、3年生の男の子に日本語を教えるアルバイトでした。その子の部屋は勉強の本でいっぱい、でも飽きたときに身体を動かして遊べるようにしてありました。夏休みは野外学習にしろ、勉強にしろ〇〇講座に参加、その他空いた時間は英語、日本語の勉強でした。おそらく友達と遊ぶことはなく、一日中勉強だったと思います。

でも考えてみれば、治安が悪くや安全に遊べる場所がない、基本的に皆共稼ぎですから(余裕がある家庭は奥さんは働いていませんでした)、特に夏休みなど親が昼間家にいないのなら、安全で友達に会える場所は学習塾でしかなかったかもしれません。公園は昼間、親と一緒なら別ですが、夕方以降は大人でも通ることもダメだと言われていましたから。

よほどのコネがない限り、一般の人に将来を約束するのものは誰もが羨み認める学歴、英語、日本語だったかもしれません。

私は約1年間、一般家庭の一部屋をお借りして生活したことがあります。娘さんがコスタリカに留学し、部屋が空いたからです。(コスタリカに留学する台湾の人は意外といました) 奥さんが小学校教員でした。私がこの受験、学校生活、塾通いについて聞くと、「学校の勉強だけでは足りない」と即答でした。(中学生に日本語を教えたこともありますので、彼女たちの学校生活についても後々書いていきたいと思います)

 

当時、女性がなりたい職業は「教師」でした。戦後、日本の女性教師は厳しい状況に追い込まれたようですが、でも教師を続けることができれば、安定した仕事だったようです。ということは、当時の台湾女性もこれに似た状態だったのかもしれません。

私は現地の大学に通い、史学という学科を専攻したことによって、「台湾の教育」を目の当たりにしたことは大変プラスになりました。他の学科とは違い、中学・高校の延長線上の授業だったからです。当然、他の学科の学生とは違ってきます。教育の怖さをここでも感じました。

(現在は知りませんが、学生は自分が行きたい大学、学科は自分で選ぶことはできず、点数によって全てが決められてしまいました。当時、大学に進学できる人は浪人生を含め、10万人のうち、3万人、史学科は40人ぐらいでしたが、ほぼ全員浪人生でした。もちろん史学を学びたくて大学進学する人はいません。)

 

外国に行って初めて、日本がいかに平和で安全で、選択肢のある恵まれて国であることが分かりました。